プロポフォールを中心とする全静脈麻酔の臨床
はじめに 松木明知,石原弘規
第I章 新しい訳語と最近の知見 1
1.TIVAの新しい訳語「全静脈麻酔」の提唱 松木明知1
2.プロポフォールを中心とする全静脈麻酔に関する最近の知見 松木明知,高橋 敏 4
3.PFKと経済性 松木明知,村岡正敏 22
第II章 プロポフォールを中心とした全静脈麻酔の実施法と薬物動態 25
1.プロポフォールにケタミンを併用する根拠 坂井哲博,北山真任 25
2.PFKの実施法 石原弘規 吉田 仁 32
3.PFKの利点と欠点 坂井哲博,村岡正敏 34
4.PFKの薬物測定法 佐藤哲観,工藤 剛,工藤美穂子 38
5.PFKの薬物動態 蛯名稔明、廣田和美,工藤弘子 42
6.PFKと硬膜外麻酔との併用 小谷直樹,橋本泰典 52
第III章 PFKの生体に及ぼす影響 55
1.PFKと呼吸機能 小谷直樹,高木芳人 55
2.循環機能 坪 敏仁,木村 太 60
3.中枢神経系一脳波に及ぼす影響- 田辺 健,安沢則之 68
4.BISとPFK 坂井哲博,米 衛東 73
5.体温調節能 -深部体温計による評価- 大友教暁,宮田章正 77
6.PFKと免疫能 橋本 浩,石原弘規 83
7.PFKと副腎髄質機能 石原弘規,工藤 剛 87
8.PFKと肝機能 高橋 敏,木村尚正 93
9.PFKと腎機能 洪 浩彰,志村かおり 96
10.PFKと硬膜外圧 廣田和美,田口さゆり 101
11.中耳内圧 窪田 武,廣田和美 104
第IV章 PFKと小児,高年者 109
1.PFKと小児麻酔 坂井哲博,廣田和美109
2.新生児 坂井哲博114
3.高齢者麻酔 廣田和美118
第V章 PFKと呼吸,循環系疾患 121
1.喘息 廣田和美,橋本禎夫121
2.開心術 石原弘規,荒木 功 126
3.WPW症候群 坪 敏仁,下舘勇樹135
4.内視鏡胸腔手術 長尾博文,杉原一穂,土橋伸行 139
第VI章 PFKと中枢神経系疾患 141
1.開頭術 廣田和美,佐々木剛範 141
2.精神分裂病 佐藤 裕,蝦名正子 146
3.てんかん 廣田和美,大川浩文 150
4.パーキンソン病 鈴木朗子 153
第VII章 PFKと内分泌,代謝,筋疾患 155
1.褐色細胞腫 蛙名稔明 155
2.アルドステロン症 堺 一郎 158
3.重症筋無力症 菰田裕美子,橋本 浩 161
4.進行性筋ジストロフィー 田辺 健,鈴木朗子 165
5.筋緊張性ジストロフィー 安田忠伸,大友教暁,宮田章正,前田朝平 168
6.肥満 安田忠伸 172
第VIII章 PFKと腹部手術 177
1.肝切除術 松野伸哉,木村尚正 177
2.腹腔鏡下手術 岩川 九 窪田 武,前田朝平 180
3.帝王切開術 大川浩文,松野伸哉,工藤弘子,坂井哲博 182
第IX章 PFKと特殊状態 189
1.緊急手術 石原弘規,浅井瑞枝 189
2.長時間手術 橋場英二,菊池淳宏,木村 太 194
3.超大量出血 松井晃紀,橋本 浩 198
4.代謝性アシドーシス 谷津祐市,松井晃紀 202
5.代謝性アルカローシス 谷津祐市 206
本書名に「全静脈麻酔」という新しい用語を用いたが,その理由は本書に詳述してある。科学であるためには特定することが必須であり,特定するためには正しい学術用語が必要である。誤った用語は科学の正しい発展の妨げになる。私たちが新しい用語を提唱する理由もここにある。誤解を招かないし,他の用語との整合性もあるからである。
われわれの教室では1989年4月から全静脈麻酔の臨床応用を本格的に開始し,1995年11月末日までドロペリドール,フェンタニール,ケタミンによる全静脈麻酔(DFK)を5,000例以上経験した。1995年12月からはプロポフォールの臨床応用が可能となったので,プロポフォール,フェンタニール,ケタミン(PFK)を用いた全静脈麻酔を開発し,これまでに教室と関連施設を併せて5,000例以上の症例を円滑に管理している。したがってDFKとPFK併せて10,000例以上になるが,全静脈麻酔法自体に起因する重篤な合併症を何ら経験していない。
われわれが全静脈麻酔の普及に努力する主な理由は次の4つのコンセプトが重要であると考えるからである。
第一はエンド・ユーザーというコンセプトである。麻酔は術者のために行われることは否定できない。しかし麻酔の最終目的は,患者の生命を手術侵襲から守り,可能な限り健康状態を速やかに回復するように全身状態を管理することである。したがって臨床麻酔の利用者は術者であり,患者である。しかしエンド・ユーザー,つまり最終の利用者は何といっても患者であり,患者でなければならない。患者を無視して,術者のためだけの麻酔はありえない。このことは旅客機運航の場合にもあてはまる。旅客機の使用者は直接的に機長や副操縦士である。しかし最終的な利用者,つまりエンド・ユーザーは乗客である。現在このコンセプトが航空機メーカーやそれを利用する航空会社に浸透している。このことは前述したように臨床麻酔の場合でも同様でなければならないとわれわれは考えている。エンド・ユーザーは患者である。したがって繰り返していうが,臨床麻酔は患者のためにある。現在,吸入麻酔法が調節性に富むという理由で繁用されているが,それは主に麻酔科医にとって調節しやすい,つまり有用という意味合いが強く,必ずしも第一義的に患者にとって有用性に富むことを意味していない。吸入麻酔により誘発される悪性高熱や臓器障害を考えれば,このことは明白である。1995年12月から,本邦でも超短時間作用性のプロポフォールが臨床の場で使用可能となったので,従来課題とされてきた全静脈麻酔の調節性に関しては何ら問題はなく,例えあったとしても,われわれ麻酔科医が,それを克服して自由自在に使いこなすだけの努力と能力を持たなければ,麻酔科学の発展は約束されないであろう。
第二はdrug focusingというコンセプトである。理想的な麻酔とは,神経系のある特定の部位の活動が,必要な程度だけ抑制され,その必要性が消失した時には速やかに後遺症を残さずに旧に復することである。侵害刺激の遮断の必要性はいうまでもない。麻酔薬がある特定の部位に可能な限り直接的に到達することをdrug focusingという。テオドール・スタンレーらが提唱するコンセプトである。このことを考慮すると,吸入麻酔薬は麻酔とは直接的に関係しない肺を通して吸入され,中枢神経系のあらゆる部位に作用する。しかし全静脈麻酔においてはすべての薬物が経静脈的に投与されるため,肺の機能には左右されず,中枢神経系の特定の部位に作用する数種の薬物がおのおのの部位に到達して麻酔作用を発揮する。肺機能に影響を受けず,抑制もしないことは特筆すべきであろう。本書中にも詳述されているように,21時間以上に及んだ一手術症例において,83,000g以上の出血量がみられ,それに見合うだけの輸血などを行ったにもかかわらず,集中治療部入室時,吸入酸素濃度を100%にした際,動脈血中酸素分圧が600mmHgとなった事実は,全静脈麻酔がいかに肺の酸素化能などを抑制しないかを示す好個な証拠であろう。
第三のコンセプトは薬物の生体全体に及ぼす影響を考慮しなければならないということである。ある薬物がin vitro,あるいは細胞レベル,組織レベル,器管レベルで,いかにすぐれた作用を示したとしても,それを生体に投与した際に,無視できない副作用がみられたならば大問題である。In vitroでは100%の抗癌作用を示す薬物が生体に投与されるとほとんどその効果が認められないなどの例も決してまれではない。全身麻酔薬については100%有効な投与量においても副作用が皆無であることが望ましい。抗腫瘍薬などのように数10%が有効であれば,多少の副作用があってもそれを無視できるという訳にはいかない。したがって麻酔科医としては,あくまで現実に実際の患者に応用してその麻酔法が有効であり,副作用が最小でなければいけないことに十分な意を払う必要がある。そして副作用が最小であるということは,その適応範囲が広いということを意味する。
第四はエコロジカルなコンセプトである。吸入麻酔の使用は手術室の環境汚染を招く。いかに余剰ガス排除装置を用いたとしてもその影響は無視できない。麻酔覚醒時に患者から排出される吸入麻酔薬に対して余剰ガス排除装置や室内の換気は無力である。受益者負担という考えからすれば,全静脈麻酔はそれを必要とする患者だけに作用し,麻酔科医や術者,さらに手術室内で働く人たちに何の影響も与えない。
以上の4つのコンセプトを理解するだけでも,PFKを含めた全静脈麻酔は何ら異端な麻酔法でなくして,むしろ正統な麻酔法の一つであり,吸入麻酔法に優ることがただちに了解されるはずである。さらに付け加えるならば,われわれがケタミンを併用しているのは,本文中にも記しているように,プロポフォールは循環抑制を招きやすいことから,プロポフォールに拮抗し,その必要量を減じ,さらにその特異的な鎮痛作用などを期待したものである。しかし必ずしもケタミンは絶対に必要とは考えておらず,開頭術などに対してプロポフォール,フェンタニール(PF)で行っているように,手術内容や患者の状態に応じてケタミンの投与の可否,投与量の多寡が決定されるべきと考えている。本書の特殊状態の項を読んで戴ければ,大略のことは御理解戴けると思う。
われわれの経験したPFK5,000余例は全静脈麻酔が臨床的にも有用であるということを示しているに過ぎず,なぜ有用なのか,その真の適応は何かなど,分子生物学的検討も含めた研究は今後の大きな課題である。なお本文の一部,とくに薬物動態の個所に関しては一部重複する個所がある。その章を独立して読み,他の個所を参照しなくても理解できるように配慮したためであることを付け加えておく。本書が何よりも日本における全静脈麻酔の普及と発展にわずかでも資することがあれば,編者,執筆者としてこれに過ぎる喜びはない。
擱筆するに際して,この研究に御協力戴いた弘前大学医学部の外科系諸教室の方々に深謝の意を表する。また本書出版に格別の御高配を戴いた克誠堂の今井彰社長に深く感謝の意を表する。また本書のワードプロセッシングに多大の労をとってくれた弘前大学医学部麻酔科の三上コウさんに厚く御礼申し上げる。
平成9年4月28日
編者
弘前大学教授 松木明知
弘前大学助教授 石原弘規