第3話 車
今,「車でお迎えにうかがいます。」「車を差し向けます。」と言えば,その車は自動車である。しかし,昭和の初めごろは人力車のことであった。日本橋の「三越」の前,上野や東京のステンショのあたりには人力車が並んでいた。
私が人力車によく乗せてもらったのは,「三越」の帰り道,母の膝の上であった。また,台風のとき,姉と弟と一緒に人力車に詰め込まれて,学校に行ったことがある。皆がぬれねずみになっているのに,一人ぬれていないのは,何か後ろめたい気がして気恥ずかしかった。
町にも何か所か「車宿」があった。漱石の「猫」の中に出てくる「車屋の黒」も「車宿」に飼われていたのである。
昭和4~5年になると車は急に自動車に移り変わっていった。「フォード」,「シボレー」がタクシーとして走り,自家用車も増えていった。その頃,自動車の排気ガスは実によい香りがした。子供達は自動車のあとを追ったものである。もう昔の話である。東京にはちょうもとんぼもせみも多かった。